ヨーハヤサカエクスペリメント

ここでは早坂葉が書いた文章をいろいろ読むことができます。

日和山

 日和山の上に日枝神社と光丘神社という二つの神社がある。私は日枝神社のことは好きだったが、光丘神社のことを好かなかった。

 郷里では毎年五月二十日頃に酒田祭というのがあって、日枝神社にはその祭神がおわすのである。酒田祭は日和山から市街へ続く道を出店屋台が埋め尽くして大変な賑わいであり、なかなかに心躍るものであるのだが、高校へ入った時分の私は、酒田祭は俗っぽくていけないなどと嘯いて自ら足を向けるのを潔しとしなかった。愚かなものだ。郷里を離れた今となっては、そう簡単に行くこともかなわない。

 日枝神社例大祭を自ら遠ざけた私であったが、当の神社は大好きだった。

 日枝神社は社殿、隋神門ともに素晴らしい規模と細工を誇る。江戸時代、当地を治めた本間光丘公によって建立された。光丘公は江戸時代の日本に広く名の知れた偉大な公家であり、社殿の造りの美しいのも頷ける。境内は様々な木々の緑に囲まれていて、大変居心地がよかった。数ある草木の中でも、私はとりわけ隋神門の脇の銀杏の巨木と、境内の一角を占める八重桜が好きだった。

 

ある雨の日、母と共に日和山へやって来た。傘をさしながら見る境内は、煙って色が淡く滲んでいくようであったが、同時に雨に濡れそぼった止め石や、社殿の紅殻色はいよいよ色の深みを増していた。八重桜が満開で、枝が重たげに項垂れていた。花弁に雨粒が打ちつけているのが克明に観察されて、私は宝石でも見ているのか知らと思えてきて、気分が高揚した。

 傘を畳んで拝殿の軒下に入った私と母は、そこに腕が一本転がっているのを見つけてひどく驚いた。50センチメートルに満たない大きさの肘から掌にかけてが、賽銭箱の脇にごろりと転がっていたのである。私たちはぎょっとして御神体の面前であるのも忘れてた大騒ぎし、駆け寄った。

 しげしげと近くで観察すると、それは木製の彫り物で、剥げかけた古い塗装の跡があった。肘より後ろは嵌め込み細工のために四角く削られていた。人間の腕が転がっているのかと思って焦ったが杞憂であった。

 母が「あっ」と声を上げた。頭上を仰いで天井の細工を指差した。拝殿の庇の下には、その天井や柱に至るまで木彫りの装飾が施されていて、その中に七十センチメートルもあろうかという猿の彫り物があった。猿は目を大きく見開いて、梁に腰掛け、こちらを見つめている。中央と左右に一匹ずつ、全部で三匹いる。

 向かって右の猿の片腕に肘から先が無いのを見とめ、私も母も理解した。賽銭箱の横に転がった腕の持ち主は、この木彫りの猿だったわけだ。

 他の二匹の猿どもに比べて、腕を落としたそいつの表情がどこか物悲しく見えるのは私が人間だからなのだろうけれど、そう思われて仕方なかった。木から削り出された猿は表情を変えることなく、だがはっきり哀しそうに、いつまでも梁の上から私を見つめるのだった。

「誰か治してやってほしいねえ」と母が言った。

 

 それから私たちは境内の一端にある光丘文庫へ行った。

 資料によれば光丘文庫は1925年に、当時の本間家の当主をはじめとした好資家の出資によって建てられた図書館であった。当時は市の中心的な図書館だったが、時を経てより大きな図書館が建設されると、貸し出しを行う図書館としての機能を失った。私が初めて行った時には既に貸し出しを行う図書館ではなく、歴史的な地域資料を保管展示する施設となっていたのである。

 光丘文庫の建物はコンクリート製で、屋根は銅葺で中国風の派手な形をしていた。入り口には不思議な書体で書かれた扁額が掲げられていた。外装はコンクリートの社殿造風だが、内部はリノリウムの床材が敷かれて洋館然としていた。

 建物のほとんどの部分は1925年当時から改められた様子がなく、窓硝子にはゆらぎが入っていたし、壁面も至る所にひび割れや滲みがあった。

 剥がれかけた漆喰の壁面の至る所に貼り紙や掛け時計の動かないやつといったのがあり、今は閑散とした文庫の内部に、かつての人間の活動を確かめることができるのだった。背の高いスチールのキャビネットは錆だらけで、そいつが経た時間の痕跡みたいなものかと思った。

 古い建物だが不潔の感はなく、冷えて居心地のいい空気が静かに対流しているのがわかった。年季の入った黒い革張りのソファーに腰を下ろして、きゅうっと背伸びをした勢いで天井を見ると、そこも重々しいコンクリートで、滲みが浮いていた。一体いつからそこにあるのだろう。私はキャビネットやソファー、コンクリートの表面に浮いた滲みの一つ一つの歴史に、吸い込まれそうになるほど思い巡らし、やがて埋没した。

「あんた、いつまでそうしてんの」

 母に揺すり起こされて目を覚ました私は、どこまでが夢でどこまでが実在の歴史事であったのかも判然としなかった。黒いソファーから身を起こし、眠い目を擦って母の後を追って外へ出ると、雨はまだ降り止んでいなかった。その日はそれきりで家へ帰った。

 

 その後にも日和山を訪れる機会は何度かあった。その中でもとりわけ印象深いのは、私が秋田へ来ることになる数日前に、これまた母と二人で赴いた日のことである。

 大学受験の前にも日枝神社にお参りに来ていたので、その御礼というわけでやってきた日のことだった。三月半ばのことだ。

 海からの風は未だ冷たい頃だったが、松に囲まれた境内は刺すように暴力的な風からは守られていた。

 隋神門の脇にある大銀杏の枝がみんな切り落とされて、幹の脇に積み上げられていた。以前来たときには、天を覆わんばかりに枝が広がっていたはずだ。

 隋神門の下を潜るとき、以前ここで雨粒が門の屋根を叩く音を聞いていたのを思い出して足を止めた。同行の母も思い出したらしく、そのことを二人で言い合った。それから二人でじいっと耳を澄まして、門の下を走り抜けていく風の唸るのを聞いていた。やがて遠くから人の話し声が聞こえてきたので、私たちはそっとその場を離れた。

 拝殿の前へ出ると、私は真っ先に例の猿の腕を探した。無い。辺りを見渡しても、一帯にそれらしいものは無く、頭上の猿の腕へと戻ったわけでもなかった。どうやらあの猿の腕はどこかへ逸失し、猿はその身の一部を永久に失ったらしい。猿というのは、例えそれが木彫りの置物であっても、少しばかり人間に似ているからたちが悪い。私たちは片腕を失った猿に、今度こそ同情せざるを得ないというのに、何だって当の猿めはああしてにやにやと笑っているのだ。我々はしばらく猿を眺めていたが、やがて光丘文庫へ足を向けた。いつもそうしていたように。

 

 光丘文庫は閉じていた。一時の休館ではない。本当に閉じていたのだ。立ち入りを制限するために張られたロープ。そこに提げられた札には「老朽化に伴い閉館云々。蔵書に関しては市内資料館にて閲覧可能云々」との文言。

 私はこのとき初めて、時は流れたのだと痛感した。時が流れ、銀杏の枝が切り落とされ、猿の腕は失われ、光丘文庫は閉じた。

 あまりにも早い。あまりにも早いではないか。時間は何をそんなに急いでこの私の上、街の上を駆け抜けていくのだ。

 私は何か非常に重く忌々しいもので打たれたような衝撃を受けた。顔や胸といった私の外側ではなく、より内側に隠していたものを打たれたのだ。

 母は「仕方ないねぇ」と言って踵を返した。これまで私が一度も行ったことがなかった光丘神社の方へと向かった。

 光丘神社は日枝神社より後に、日和山の北側に建立された神社で、本間光丘を祀っているという。建立は光丘文庫が建てられたのと同じ1925年であるから、当時の日和山では二つの建築作業が並行していたことになる。さぞかし賑やかであったことだろうと、私は夢想するものである。

 光丘神社の狛犬日枝神社のそれより見窄らしい姿をしていた。阿吽の相を呈する双犬のうち、とりわけ吽形の狛犬は大きく剥落して損傷が酷かった。先程私は、猿は人間に似ているので同情するというようなことを書いたが、狛犬を前にした私たちの態度もそれに大差なかった。

 母は眉を八の字にして、この神獣を憐むように見た。

 神門を潜って開けた境内に出た私は、なんだか恐ろしい気持ちになった。こう書いては大変失礼なことやも知れないが、事実であるから書いておくことにしよう。

 境内は閑散としてうら淋しく、周りの木々も薄いので風当たりも強かった。何より社殿の脇の境内と接続する場所に廃屋が建っているのが耐え難い不気味さであった。廃屋はこの場所のかつての管理人の住居と見られ、埃っぽい窓の向こうに汚れたカーテンが見て取れた。入り口らしきところから内部の雑然とした様子が垣間見えた。自転車の残骸や、穴の空いたバケツなんかが積み上がっていて、凡そ神社の境内から見る光景として相応しいものではなかった。

 なんだか気味の悪いところだと思って、廃屋と反対の道へ逃げるように出た。松林はいよいよ薄く、風が肌を刺す。私と母はひゃあひゃあ言いながら丘を上がり、敷地を一周する形で最初の日枝神社の裏手へ出た。わずかに高くなった丘の上で振り返ると、林の間から黒々とした日本海が見えた。

 丘を降りて日枝神社の表へ出ると、先ほどまでは誰もいなかった境内に、四、五人の参拝客があって神の御前は賑やかだった。

 一人の中年の女性が足を止めて佇んでいた。彼女の視線を辿って私が顔を上げると、背の高い梅の木の枝先に、一輪だけ花がついていた。

「梅が」

 私が呟くと、女性はこちらを見て少し笑った。

 

Yo Hayasaka 2019