「〜である」とも言えるし、「〜でない」とも言える。みたいな、ありようが好きなのだけれど、そういうのが嫌いな人もいるのかもしれないと思うことも多くなった。
このあいだ、大学のときの専攻の教授の車に乗ってたら「どうなの最近は」といつものようにしゃがれた声で聞くので「まあまあですねえ」と答えた。*1
「バイトとかしてるの?」
「してますねえ」*2
あるいはこういう聞き方もあるかもしれない。
「生活できてるの?」*3
ご覧のとおりである。アイム・ヒアー。このように生活できていますよ、ワタクシは。だが生活できていないとも言える。人の助けがなければ生きていけないくらいの生活をしている。
最近ノートパソコンの調子が悪い。だが使えている。すぐに充電がなくなったり、重いファイルをダウンロードすると悲鳴を上げたり、動画編集ソフトがカチコチになったりしてはいるけれど、動いている。私はパソコンの悲鳴を聞き流しつつ「もうちょっと頑張ってね〜」と言いながら、この文章を打ち込んでいる。
今は使えている。電源がつかなくなると、全く使えなくなる。たぶん、パッタリと使い物にならなくなる瞬間が来るのだと思う。今はお金がないので勘弁してほしい。
「〜であること」と「〜でないこと」は、ほとんどの場合その両方の性質が共存していると私は信じている。ほとんどの存在が常に「〜かけ」の状態なのだと。私がある瞬間に〜でなくなることがないと信じている。でも、もしかすると、気がついたときには、〜でなくなっているのかもしれない。壊れかけのパソコンはずっと壊れかけでい続けることはない。不意に電源がつかなくなるだろう。もしかすると「まあまあですね〜」とか言ってるうちに、まあまあじゃなくなるのかもしれない。*4
前進などない。*5